方丈
臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西禅師。開基は源頼家。鎌倉時代の建仁二年(1202)の開創で、寺名は当時の年号から名づけられています。山号は東山(とうざん)。諸堂は中国の百丈山を模して建立されました。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学でしたが、第十一世蘭渓道隆の時から純粋な臨済禅の道場となりました。八百年の時を経て、今も禅の道場として広く人々の心のよりどころとなっています。
方丈
三門
法堂
茶碑
開山堂楼門
勅使門
開山堂
茶席「東陽坊」
清凉軒
方丈庭園「大雄苑」
方丈庭園 潮音庭
方丈庭園 ○△□乃庭
当寺では、ご来寺いただく他の方々にご迷惑がかからないよう、特に下記の行動につきましては厳禁とさせていただきます。皆様、節度ある行動を心掛けてご参拝くださいますようお願い致します。
境内での寝そべりや座り込み等で他の参拝者の通行を妨げること
歌唱や大声で騒ぐなどの行為。
境内での飲食並びに喫煙
立ち入り禁止区域への立ち入り
スポーツ、遊戯等
スケッチ
※境内に於けるトラブル、事故について一切の責任を負いかねます。
許可なく境内を使用した作品の制作やスタジオとしての利用、営利や営利に繋がる作品の撮影。
プロのカメラマンやメディアなどよる撮影を行うこと
動画撮影
ドローン撮影
三脚、一脚、自撮り棒、ジンバル等のカメラ周辺機材の使用
営利、営利を伴う写真撮影、動画撮影
商業利用を目的とした写真撮影、動画撮影
コスチューム等(和装を含む)を着用しての写真撮影、動画撮影
記念撮影、人物撮影
※庭園、作品のみ写真撮影可能です。
※場合により、拝観をお断りする場合がございます。
事前に必ずFAXまたはメールにてお知らせ下さい。
引率者、保護者のいない場合の拝観はお断りします。
必ず責任者として引率教員、保護者の方の付き添いをお願いします。
霊洞院(僧堂)
霊洞院(僧堂)
高山慈照(建仁寺二十六世)の入寂後に、その塔院として建立された。現在の堂舎は嘉永六年(1853年)のもの。方丈前の庭園は江戸中期の享保頃の作と推定される。昭和四十九年、国の名勝庭園に指定。現在、建仁寺派の修行道場になっていて拝観は出来ない。
禅居庵
禅居庵
建仁寺第二十三世、清拙正澄(1274-1339年)が晩年退隠された塔頭寺院。小笠原貞宗が元弘年中に創建する。禅師は嘉歴元年(1326年)「海東の檀信」に招請され来朝。北条高時に迎えられ鎌倉建長寺・浄智寺・円覚寺に住山、清規を制定し衆寮を造営、叢林の風規を粛正する。元弘三年(1333年)後醍醐天皇の招請により、京都建仁寺に住し、のち南禅寺に住す。暦応二年(1339年)正月17日自ら設けた「百丈忌」の当日、当庵にて遷化。世壽六十六歳、大鑑禅師と諡される。
正伝永源院
正伝永源院
宋から渡来した義翁紹仁(?−1281年)が開いた正伝院に始まる。天文以降、荒廃していたが、元和4年に織田長益(有楽斎)が再建した。明治六年、旧永源庵の地に移されたときに、現在の寺号となる。永源庵は無涯仁浩を開基とした寺院で、応仁の乱で兵火に罹ったが第十世の九岩中達が再建した。
両足院
両足院
開基は龍山徳見(1284−1358年)。その入寂後、法嗣の文林寿郁が両足院を創建、師を追請して開祖とした。天正十七年(1589年)に一華院を合し、明治五年(1872年)には養浩院を合併した。一華院は大永元年(1521年)に月舟寿桂が創建した塔頭。
六道珍皇寺
六道珍皇寺
開基は弘法大師とも小野篁とも、また大安寺の僧慶俊とも伝える。承和三年(836年)に山代淡海によって「国家鎮護所」として建立された寺で、初めは真言宗で教王護国寺(東寺)の末寺となっていた。南北朝時代、大昌院を創建した良聡が管領してより、建仁寺の所属の寺院となり、現在にいたる。
大統院
大統院
開基は青山慈永(1302-69年)。観応年中(1350−52年)の創建。天文二十一年(1552年)に類焼したが、寛永十四年(1637年)にいたり再建された。天文年中に焼けた光沢庵を合し、明治には如是院を合した。如是院は此山妙在(1296−1377年)の創建。
常光院
常光院
開基は温仲宗純(?−1511年)。慶長九年(1604年)、三江紹益に帰依した木下茂叔が堂舍を直した。温仲が明応二年(1493年)に今熊野から建仁寺に移した福聚院を合し、明治五年(1872年)には春松軒も合した。木下家定(北政所の兄)の墓がある。
大中院
大中院
康永元年(1342年)に東海竺源(1270−1344年)を開基として創建された。応仁の乱で荒廃。承応四年(1655年)にいたり雪窓霊玉が中興し、文化年中(1804−18年)に景和竺応・全室慈保が再建した。
興雲庵
興雲庵
初め臥雲庵と号した。開基は石梁仁恭。元の台州の人。天文五年(1536年)の兵火に罹り、正保年中(1644−48年)に再建された。天明八年(1788年)にも類焼したが、再建。
西来院
西来院
開基は蘭渓道隆(1213−78年)。応永年中(1394−1428年)、道隆四世の法孫大宗が清本院を再建して西来院と号したのにはじまる。応仁および天文の兵火に罹ったが、慶長(1596−1615年)以降に再建された。
清住院
清住院
開基は蘭洲良芳(1305−84年)。天文年間(1532−55年)に火災に遭い焼失。承応二s年(1653年)に茂源紹柏(1599−1667)が再興した。開基の蘭州は康安元年(1361年)12月、将軍足利義詮が後光厳天皇を奉じて近江に逃れたとき、その四歳の嗣子義満をかくまい、衣中に隠して播磨の赤松則祐にまで届けたことで知られる。
霊源院
霊源院
室町時代の応永年間(1394-1428年)龍山徳見和尚を勧請開山として創建。創建当初は霊泉院といい、その後、当院の世代である瑞巌龍惺和尚(1384-1460年)の軒名、霊源を用いて霊源院とする。当院世代には室町時代の五山派の代表的学僧が多く、中でも江西龍派の実弟である慕哲龍攀は詩名が高く、大徳寺の一休宗純が幼年、師のもとで作詩の法を学んだ事は有名である。また当院には四帖半の茶席「也足軒」(一庵の軒名)と二帖の茶席を有する。
堆雲軒
堆雲軒
霊洞院の正仲が同院の隠退所として貞和二年(1346年)に創建。高山慈照を追請して開基とした。天文の兵火にかかり、延宝八年(1680年)に再建された。
久昌院
久昌院
慶長十三年(1608年)奥平信昌・松平忠明が、三江紹益(1572−1650年)を開基として創建した。慶長年中に高松軒を合した。